今回も宮崎・日南市にある飫肥(おび)の旅の続きです。
近代、飫肥が生んだ偉人といえば小村寿太郎(1855年~1911年)ですね。
小村寿太郎は日露戦争後の明治38年(1905)年に、ポーツマス会議日本全権としてロシア全権ウィッテと交渉し、日露講和条約(ポーツマス条約)を締結・調印したことで知られています。
小村は飫肥藩の下級武士の子として生まれました。
父親(小村寛平)は同藩の産物方で、明治維新の後、それを引き継いだ商社経営へと乗りだしましたが事業に失敗。
その借金で、小村寿太郎も大がつくほどの貧乏暮らしだったようです。
学問はよく出来たようで、飫肥藩の藩校・振徳堂で学んだあと、長崎に遊学、明治3年(1870年)には藩の推薦を受けて大学南校(東京大学の前身)に入学。 その後、国の海外留学生としてハーバード大学に留学しています。
小村の故郷である飫肥では、彼の生家が復元され一般公開されています。
まことに簡素な家で、当時の下級武士の暮らしぶりが想像できますね。
現在建っているのは大正期に移築された場所で、もともと生家があったところには石碑が建っています。
私が訪れたときには、沢山の団体旅行客が集まって写真を撮っていました。
飫肥藩(伊東氏5万1千石)のような小藩(外様)から小村のような大人物が輩出する。
どうやら明治期は、万人に夢と希望があり、みずから生き方を切り開くことができる時代だったようです。